時の流れのように滞りなく進む地下鉄の改札をくぐり、これから始まる今日へと続く長い階段を、寝ぼけ眼でゆっくり上がる。

 クーラーで冷えた体は一歩外へ踏み出すと、湿度をまとった熱気があたしの体を取り巻いた。

 もう何と言うんでしょう。
 室外機?
 外に設置された室外機から吐き出される、あの空気に似ている。
 生暖かい人肌みたいだ。

 外は曇り空。
 でもどこからか太陽が顔を覗かせているらしく、日射しが眩しい。
 あたしは空に手を翳して太陽の在り処を探した。

 光源を手のひらに感じると、かかげた先に懐かしい感触が蘇る。

 初めて繋いだあの人の手の温もり。
 いつも綺麗に切りそろえられた清潔な爪と、華奢な体に似合わぬ大きな手が、温かさをまとって鮮やかに蘇る。

 あたしは遥か昔になくしてしまったその温もりにもう一度触れたくて、あの頃と同じようにきつく指先に力を込めた。

 その瞬間。
 まるで魔法が解けてしまったかのように手の平の温もりは消え去り、からっぽなあたしの手の平は、悪戯に空を掴む。
 強く握った拳の中にあるのは、ほんのりと温かいあたし自身の温もりだけ。
 ちょっとだけ切なくて、でもそんな風に思ってしまう自分に何だか笑えた。

 暫くあたしは子供みたいに何度も何度も同じ動作を繰り返しながら、会社へ向かった。

 あたしは今あの人の確かな手の温もりを今この手の平に感じているのに、掴もうとすると私はひとりぼっちになる。

 昔あたし専属だった彼の手は、今では新妻さんの手をしっかりと掴み、そしていつか産まれる子供の手を取るようになるのかしら。
 現在過去未来。同じ温かさで。

 あたしは大きく深呼吸すると、もう一度翳した指の隙間から太陽を仰ぎ見た。
 目を細めても凝視できない力強い光。

 彼の笑顔を思い出そうとした。
 霧の向こうの側の住人となってしまった、幼さを称えた柴犬のような彼の顔。
 毎日毎日、何年間も見つづけていた彼の顔を、もうはっきりと思い描く事ができなくなってきている。

 すべてを押し流すように流れ続ける時間という膨大な水。

 どうしようもないほど残酷で、でもはっとするほど慈しみ深い自然の理みたいなもの。

 もう時間の流れに削りとられ、ぼんやりとしか顔も思い出す事ができない人だけど。
 同じ空の下にいるあの方が、今日も健やかに暮らせますように。

コメント